※写真と本文の内容は関連ございません。
今回は、「終活」って何すること? その③、「命の瀬戸際に受ける医療について」のお話です。
このテーマは、私が看護職として長年医療機関や高齢者施設で従事してきた中で、「終活の中で最も大切なものではないか」と考えるものです。当HPのコラム「リビングウィル、尊厳死」の中でも、何度か取り上げてまいりましたので、ここでは、「尊厳死」や「延命措置」についての詳細な説明は割愛させていただき、私が実際に経験した出来事をお話したいと思います。
看護職に就いて間もない頃、当時勤めていた医療機関に当時40代だった方が入院されていました。
この入院患者様は突然の脳の病に倒れ、一時危険な状態に陥られましたが、懸命な治療を受けられ、一命を取り留められました。しかし、重い後遺症が残り、ご自分で口から食事をとることができず、胃に直接栄養を送る「胃ろう」を造設し、一日に3回の必要な栄養をとられている状態でした。目は開けていて今にもお喋りできそうな表情はされているものの、声を発することはできず、ご自分で寝返りをうつこともできない、寝たきりの全介助のご状態でした。
この患者様には、70代の親御様がおられ、毎日のようにご夫婦そろってお見舞いに来られていました。「今日もいい顔してるね」「今日は○○(患者様のお名前)の好きな歌手の歌のCD持ってきたよ」「髪を整えようね」と、返事はなくともごく自然に話しかけられる姿に、私自身の両親の姿が重なり、現場で働くプロとして失格かもしれませんが、幾度となく涙がこぼれそうになりました。そんな様子が続いたある日のこと、ちょうどこの日担当だった私がケアに入った際に親御様からこんなことを言われました。「こうやって毎日この子の顔見られるのはうれしいけれど、自分たちも歳をとり、いつまで面倒を見てやれるか分かりません。この状態がいつまで続くのか、不安です。生きててくれるだけでいい、だけど、この子は今苦しんでいるかもしれないですね、そうではないですか?」私は返す言葉がなく、ただ曖昧な笑顔で聞くことしかできませんでした。親御様は私たちがケアに入る度に、「すみません」「ありがとう」と毎回仰ってくださいました。しかし、一般的・世間的に「大人」と言われる年齢にある自分たちの子供が、自ら動くことも話すこともできず、食事や排せつのケアを他の誰かから受けている、その姿を見ることは、辛く悲しいことだったかもしれないと、今更ながら思うのです。そして、「本人もそれを望んでいるのか、本当は苦しく辛いのではないか」と思い悩む気持ちになることもごく自然な感情だと思うのです。
今、医療を受ける患者の権利を守るべく、様々な提言がされています。自らの権利を知り、選択、判断ができるのであれば、ご自身にとって納得のいく医療を受けることにつながるのではないかと考えます。
しかし、この患者様のケースのように、ある日突然に命の瀬戸際に立たされ、自身の受ける医療に選択や判断をする余地のない状況に陥る現実があることも確かです。その選択や判断を、本人に代わってご家族が迫られた時、ご家族の心理的・精神的負担はどうしても大きくなります。
「もしもご自身やご家族が命の瀬戸際に立たされた時、どこまでの、どんな治療を望まれますか?」
リビングウィルや尊厳死をテーマとしたお話をさせていただくとき、私はまずこの質問をさせていただきます。「返事に困る」「すぐ答えられない」「考えたくない」などのお答えがほとんどですが、お話の終了後には、「考えなきゃいかんね」「ちょっと家族とも話してみるわ」と仰ってくださる方も多くいます。
命の重さ、尊さが分かるからこそ、 すぐに答えが出せるものではない質問です。(質問をさせていただく側としても、とても緊張します) しかし、万が一の備え、「終活」の一つとして、ぜひ思いを馳せていただきたいと思います。
次回は「終活」って何すること? の最終話、~その④ 実はこんな現実が。介護が必要な状態になった時に備える~がテーマです。
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